幸せな恋愛とは!?
 

 失恋話ばかり書いていたので、一つくらい成就した話でも・・・。
『太陽が教えてくれた北風』等で書いたカナダの英語学校のジェリー先生と、
誰にも内緒で恋愛していました!当時、私は22で彼は51。
始まりは、私が書いたラブレターからだった。もちろん結婚されていたし、
気持ちに答えてもらうつもりではなく、ただ好きと伝えたくて一生懸命英語で
書いて、渡した。すると、
「もし僕が20歳若ければ・・・」と言われたので、
「20年前のあなたじゃなくて、今のあなたが好き!」
と、ストレートに伝えたのが嬉しかったみたいで、付き合い始めてしまった。
私の中では、旅の間だけだから、という気持ちがどこかにあった。
でも彼は、そんな旅人の私に対しても、惜しみなく愛情をたくさんたくさん
与えてくれた。

 家にもよく遊びに行って、5人の子供達とも年が近かったので、友達になり、
奥さんとも親しくなって、家族ぐるみで仲良く、不思議な関係だった。奥さんは
気難しく、繊細な人で、人前でもジェリーには愛情がないかのように、
冷たい態度をとるけど、クリスチャンの間では離婚は許されてないらしく、
子供の為にも別れない、いわゆる仮面夫婦らしかった。

 その時の私は、自分の家族が嫌いで、昔から褒められた事もなかったから、
私なんか大したことない人間、ちっぽけで小さい・・・
そう思っていた私の作る作品に、彼はいつも感動してくれて、
作り出す力を与えてくれていた。
「君は心に耳と目を持っている。心の目で見た物、心の耳で聞いた物、
感じた事、それが文章になったり、絵や写真に表現される。
それを見たいと思う人は必ずいるよ!」
もう、やめて!!と、照れて恥ずかしくなるくらい褒めてやる気にさせてくれた。
彼の5人の子供もそれぞれ、油絵やイラストが上手だったり、
ピアノやギターを演奏したり、詩を書いたり・・・一人一人がアーティストだった。
こんな素敵な父親から毎日褒められて育てられたら、自然と表現力が豊かに
なっていくだろうと、素直に羨ましくなった。
 私が花の種なら、彼は水を与え、光を注ぎ・・・それに答えるように、
私から沢山作品が生まれて行った。
光に向かってまっすぐ育つように、眩し過ぎる愛情を受け取っていた。

 いつか別れが来る事もわかっていたので、よくこんなことを言っていた。
「僕は嫉妬したりしないから、日本で好きな人ができたら、教えてね。
その彼を通して、君を愛することができるから。」
子供な私はよく理解できず、何度も聞き返していた。
「ヤキモチを妬かないって、おかしい!」
逆の立場なら、絶対妬いてしまうだろう。でも彼は違うらしい。
「嫉妬は自分が一番だと思っているわがままなこと。相手を一番に考えたら、
その人の幸せを願うこと。例えその人が選んだ相手が自分じゃなくても、
自分の代わりに相手の側で、相手を幸せにしてくれるなら、
それは嬉しい事なんだ。」

 青い鳥を探すように、自分の居場所を求めるような旅をしていた私は、ジェリーこそが私の青い鳥!ずっと彼の側にいたい!と思っていた。
しかし彼はもっと先の私を見ていた。
「もちろん君と離れるのは寂しいし、ずっと側にいて欲しい。
でも、君は伝えたい言葉やメッセージをたくさん持っている人だから、
鳥のように自由に飛んで、出会った人達にシェアして欲しい。
君自身が"青い鳥"だから。」
そして、こう続けた。
「人を好きになることを、止めないで欲しい。君に愛された僕と同じ気持ちを、
誰かが味わうならその彼はとっても幸せだよ!!」


 ・・・そんな、そんな恋愛が22〜23の頃だった。ジェリーの気持ちとは裏腹に、
日本の生活では全くクリエイティブとは遠ざかり、その後日本で付き合った
二人の彼とは、『Service』『彼が私にくれたモノ』で書いた通り、
最後は他に好きな人を見つけて、一方的に去られてしまった。
なんの話し合いもなく、まるでテレビのチャンネルを変えるかのような、
瞬間的な出来事。

 もしジェリーだったら・・・と考えてしまう。
英語をうまく話せない私に対しても、いつも諦めないで、心の耳で理解しょうと
してくれていた。私のたどたどしい発音、少ないボキャブラリーの一言一言に
耳を傾けてくれていた。でも私はいつももどかしく、本当はもっとこんな表現を
伝えたいのに・・・咄嗟に「Thank you」しか出てこない。
でもその「Thank you」にお願い!伝わって!!と精一杯気持ちを込める。

 日本語だと、表情や言葉のニュアンスで空気を読んだりするから、
相手を思いやって感情を抑えたりするけど、言葉の裏にこそ
本心があったりする。だから、言葉にしなくてもわかってくれる、
という甘えがあるのかもしれない。
でも英語はそんなのなくストレートだから、私がNOと言えば、
純粋にNOなんだと受け入れる。ジェリーは駆け引きなんて器用な事は
できない。でも私は「違う!NOな訳はない!もっとわかって!!」と、
これだけ愛情をもらっても、彼を困らせ、勝手に怒ってしまったこともあった。
英語で言葉を伝えるだけでもいっぱいなのに、その裏の本心を
読んでもらおうとするのは、よっぽどその人をわかろうと思わない限り、無理。
そんなこと、わかっていたはずなのに。

 日本は求めようとすれば、自分を満たしてくれるものは何でも見つかる。
口に合う食べ物や、好みの服、便利グッズや、面白い番組、
ピンポイントで求めるようなマニアックな趣味の物、そして『人』でさえも・・・。
人間関係だって、話し合って妥協し合ったり、喧嘩して泥沼になるほど、
その人に固執する必要はない。相手を変えるだけで簡単に解決するんだから。
二人の元彼は、そんな面倒臭いことを放棄して、
自分をただ満たしてくれる人の方へ行っただけ。
日本語でいくらでもスムーズに言いたい事、伝えられるのに・・・。

 そんなことを振り返って考えてみたら、もう2年も誰も好きになってないなぁ、と。
ふと、人を好きになる気持ちを思い出してみたくなって、
もう一度、大好きだったジェリーに会いに十年振りに、カナダに行こうと思った。
(『変わったコト 変わってないコト』にも書きました)
 久し振りにジェリーと、電話やメールでやり取りをし、
一週間の滞在だったので、「トロントやナイアガラにも行く?」と聞かれたけど、
「私はただ、十年前と同じ生活をしてみたいだけ。ジェリー先生の英語の授業を
受けたい!」
と言うと
「その言葉だけで、もうビッグスマイル(^−^)だよ!」
と嬉しそうだった。

 彼は60で私は31。初めて出会った時から、本当にお互い十年振りだった。
でもすごく不思議だったのは、オタワに旅行に来た、と言うよりは
帰って来たような感覚。日本に長―く旅行に行っていて、
やっと故郷に戻って来たみたいだった。
彼は離婚をしていて、5人の子供達もそれぞれ独立していたので、
あの時とはだいぶ状況が変わっていた。
「こっちでマッサージの仕事をしたら?ここに一緒に住めばいいよ!
ご飯も作ってあげるから。」
と言われた時は、本気でそうしょうかとも思った。
やっぱり、私を丸ごと受け入れてくれるのは、ジェリーしかいない。頑張ろうとか、
無理に変わろうとしなくても、そのままでいいと言ってくれる人に出会いたくて
たまらなかった。
ただその年は、東京で個展を2回やることに決めていたし、日本語での表現や
日本でやりたいことは、まだやり切れていなかったから、
結局カナダでの暮らしは諦めた。
「君のボーイフレンドは、Artだからね〜」
と、ジェリーが初めてヤキモチを妬いたみたいで、かわいかった。

 日本で、いつか絶対やりたかったことの一つは、福祉の世界で介護職に
就くことだった。二十歳の頃、ホームヘルパーの資格だけ取って、
実際、仕事にすることはできなかった。人の『老い』と向き合うのが怖くて、
その仕事から逃げた意識が常にあったから、車椅子や障害を持つ方を
見かけると、いつも心が痛んだ。
 でもあれから12年以上経ち、少しは大人になった今なら、
できるかもしれない、と。


 その時のことを取り戻すかのように、病院で看護助手として働いた。
そこでは、寝たきりのお年寄りのオムツ交換が主な仕事で、体の硬直した、
動けない患者さんを一人で持ち上げて、お尻を拭き、オムツを取り替えていた。
思っていた以上に体に負担のかかる仕事で、両腕腱鞘炎になってしまった。
しかも患者さんは風邪を引いている人が絶えずいる環境の中で、
マスクをしていても私も月1ペースで熱が出るような風邪を引いていた。
腰や腕を痛めながらも、きっとやっているうちに体が慣れていくだろうと、
ごまかしながら続けていた。でも毎日オムツを開けて、人の便を見るのも、
その匂いも慣れることはなかった。

 普通に食事ができる人は、ほんのごくわずかで、
いわゆる普通のしっかりした便は、殆ど見た事がなかった。
鼻から管を通す経管食の人は薬も混ざっているので、墨や海苔のような
真っ黒い便。中には、下剤や浣腸のし過ぎで、大量に出て、腰や背中まで
便の湖に浸ってしまっている人もいた。その場合、オムツだけではなく、
シーツや病衣、毛布も全部取り換えることになる。
 自分で拭きたくても拭けない、辛くても助けてと呼ぶこともできない患者さんの
苦しみを思えば、「臭い、汚い、疲れた」そんな言葉は、思うことすら有り得ない。
それを覚悟して入った世界だったはずなのに・・・。

 周りのスタッフは、悪口陰口大好きな人達で、人間関係も最悪だったので、
体も精神的にも辛く、いつかは限界が来るような気がしてしまった。
 そんな過酷な仕事の中で、唯一空気を変えてくれるような、ムードメーカーの
面白いおじさんがいた。(『Cool Down』の中で書いたNさん)
Nさんは植物人間状態の反応もないような患者さんに、寄り目にしながら、
普通に話しかけて、笑わせたりしていた!
私や他の人では、何を訴えているのか全くわからない患者さんとも、
Nさんだけは、会話をしていた。その光景は、
まるで動物と話ができる人間のような、不思議さだった。Nさんは、
「ここの患者さんは、これ以上悪くなることはあっても、良くなる事はないって
わかっているから、退院できるとは思っていない。
だったら、少しでも面白いこと言って、楽しませてあげなきゃ!
生きていれば、楽しくて笑う事もできるってコト、思い出させてあげたい。」
と、話していた。
私は自分の体調管理でいっぱいいっぱいで、日々のオムツ交換でヒーヒー
言っていたので、患者さんの気持ちを考える余裕は全くなかった。

 でもその話を聞いて、そういえばカナダのジェリーも、
英語が理解できるかどうかわからないような生徒達にも、公平に話しかけて、
わかるまで説明してくれていた。誰のどんな小さな話でも耳を傾けてくれて、
話しやすい空気を作ってくれていた。それは先生だから当たり前とか、
介護士だから当然ではない。聞く耳を持たない英語の先生もいたし、
同じ介護職員でも、自分達よりずっとご年配の患者さんに対して、
「○○ちゃ〜ん!かわいいわね〜!お名前は!?」
と、赤ちゃん言葉でバカにしたように話す人達もいた。
息をするだけでも精一杯のお年寄りに・・・。
 福祉の世界だからといって、良い人、優しい人ばかりではない。
今は人手不足で、どんな人でも雇うから、逆にクセのある人達だけ残ったり
するのかも。私のように、体力と気力で負けてしまえば、
続けることすらできない。

 ただ、そこでの仕事の唯一の楽しみは、Nさんが患者さんと接している所を
見ることだった。自分がもし患者さんだったら、ああゆう人が毎日、
自分の側にいてくれたらいいだろうなぁ、と思って見ていた。
Nさんはもともとリハビリの方をやっていたらしく、そこで働く若い人達はあんまり
続かないみたいで、いつもこう思っていたそう。
「学校では技術しか教えてくれないけど、リハビリで一番大切な事は、
信頼関係。この人に任せて一緒にやっていけば、きっと大丈夫って
安心させる為には、時間がかかる。なのに、学校出たてだと、
何を勘違いするのか、教えられた通りやっているのにできないって、
諦めて辞めてしまう。機械扱ってるんじゃないんだから、その人のペースに
合わせて気長にやらなきゃ・・・。」
 そうだ、信頼関係を築くには、日々の積み重ね。
そして、技術よりもモチベーションなのだ!やる気を出せば、
時間がかかったとしても何でもできるはず。

 しかし私は、そのやる気さえなくして、もう仕事を辞めたいと思っていた時で、
これは叱られる、と思ったら、
「この現場は仕方ない。体力的にキツイ仕事ではあるけど、チーム組んで
やってるからには、お互い助け合ってやっていかないと、俺だってキツイのに、
君みたいな初心者にもろくに教えもしないで一人でやらせて、
失敗したら犯人探しして個人攻撃する・・・。
体に無理してまで頑張る必要はない。」
犯人探し、というのは実は以前、婦長がしたミスを私のせいにされて、
濡れ衣で看護師さんに怒られたことがあった。私は入りたてで、
気を付けていたつもりでも、もしかしたら間違えたのかもしれないと、
謝ってしまったけど、その時は自信を持って私じゃない!と言うべきだった。
この病院はそんなことだらけだという。医療ミスが起こってもおかしくないくらい
手を抜く看護師に、失敗を人のせいにして堂々としている婦長。
Nさんも、あの環境で患者さんを見てるのは、不憫で仕方ないと言う。
実は、このNさんのことまで、陰ではケチョンケチョンに悪口を言うような先輩達
だったので、一緒に働きたくない気持ちもあった。
そうゆうことが積り積っていた中でのNさんの「無理しなくてもいい」と言う言葉に
力が抜けた。

 それから、帰りによく二人で食事して愚痴を聞いてもらったり、
患者さん一人一人の事をいろいろ教えてもらっていた。26歳離れていたのに、
すごく気が合って、人間的にも尊敬できたし、男性としても好きになり、
私から告白して付き合い始めた。彼の話はウソか本当かわからない冗談が
多くて、数分に一回は笑わされていた。私がすぐクヨクヨ考えてしまうタイプ
だから、あっけらかんとした彼が大好きになった。
 
 二人共、その病院は別々に辞めて、彼はリハビリの仕事に就き、
私は、作品作りに少しゆっくりすることにした。あの病院での人間関係や、
キツかった仕事を思うと、何だかもう働きたくなくなってしまった。
そう思っていたら、彼の方から、一緒に暮らそうと言ってくれた。
「一人で住むのも、二人で住むのも変わらないし、生活費出すから、
しばらくゆっくりしたら?家事もやるから!」
 彼は娘さんがまだ赤ちゃんの時に離婚していて、
男一人で子育てしてきたから、家事は何でもできる、
私は何もしなくてもいい、と。

 私は、作品作りに打ち込めるし、とても有り難いお話だと思って、
早速不動産屋に電話して、一ヶ月後に家を出る手続きをして、引っ越し・・・
のはずだった。
親には相談ではなく、その報告をしたら猛反対された。母より二つも年上の
相手なんて止めなさい、と。
「その人がいずれ病気になったら、看病させられるだけじゃない!?
養女にでもなるつもり??アンタ、自分が働きたくないからって、
楽しょうとしてるだけでしょ!?
お姉ちゃんみたいに、働きたくても働けない人だっているんだから・・・」

 現実、母の言う事は正論だった。病院で働いていた時、精神科には、
普通に働いて世の中と関わったり、友達や恋人を持つこともできないような
人達は沢山いた。自立して、何でも自分一人で出来る私が
わざと何もしないのは、ただの我儘だった。
でもその時は、彼が好きだったし、一緒にいたい気持ちが大きかったので、
そのうち働く気になるかもしれないから、と話すと、その彼に会わせなさい!
と言われた。私は、彼と会って話せば良さがわかるはずだと確信していたので、
その場で電話を掛けて、母と話して欲しいと言うと、思ってもない言葉を聞いた。
「・・・そっかぁ、そりゃ反対されて当然だな。奈々はいくらでも若い男を
見つけられるだろうし、ちょっと考えようか。」
と、電話ですら母と話そうとしなかった。親と同年代にしてみたら、
娘を心配する気持ちがわかって、私の将来の為を思って身を引こうと
したのかもしれないし、それとも反対されてまで自分の気持ちを貫こうとする
自信がなかったのか、ただ面倒臭い事が嫌だったのか、実際はわからないけど
私は、その言葉を聞いてサーッと気持ちが引いてしまった。

 今までの私だったら、親に何を言われようと、心配されようと、好きなコトを
好きなまま自由にやってきていた。それが"私"のはずだったのに、
年を重ねたせいか、親に反対されて、心配かけてまで、自分勝手な事は
これ以上してはいけない気がした。
父は、
「男は、母親が反対してるなんて言われたら、話したいとは思わないよ。
それだけで判断することはない。一度きりの人生なんだから、
誰に何言われようと、気が済むまでやってみればいいだろう。
それでダメだったら、その時又考えればいい。」
父の言葉は有り難かった。そうしたい気持ちは存分にあったけど、
実家に住めない私にとっては、万が一ダメになった時、
また1から部屋を探して・・・というのは『Service』でも書いた通り、
精神面はもちろん、金銭的にも体力的にも大変だということがよくわかるので、
簡単に行動に移せなかった。
もういい加減、「好き」だけでは突っ走っては行けなくなってしまっていた。

 58歳の彼とは、交際はしてもいいけど、一緒に暮らすのは止めなさいと
言われていたので、その後しばらく会っていた。会う度ごとに優しく
甘えさせてくれていた。私の好きな食べ物を作ってくれて、くだらない話で
笑わせてくれて、クリスマスにはCDが欲しいと言うと、お金を渡してくれた。
「髪、長過ぎじゃない?床屋行ったら!?」と言うと、
「じゃあ、行って来る。」と、本当にすぐ行って来て、かっこよくなった!と
ヘアスタイルを褒めると、嬉しそうにしていた。

 でも、それと反比例するかのように、私は日に日に冷めていった。
・・・アレ?これってもしかして、何かと似ている。『彼が私にくれたモノ』
書いた、その時の元彼の気持ちは、今の私と似ているのかも。
言う通りにしてくれる相手は、決して悪くない。
ましてや嫌いになった訳ではない。
でも別れを切り出さないと、きっとお互いの為にも良くない、と考え始めた。

 好きだった時は、天然で何も考えていない無邪気なところや、
人の話を聞かない自由さや、ウソと本当が混ざった冗談の多い話や、
いい加減で勝手な所が純粋で魅力的で、大好きだったのに、
だんだんとそうゆう暴走する彼についていけなかったり、
逆に嫌に思えてしまっていた。でも無理に変わってもらうことを
望んでいなかった。
私が好きになった、そのスーパーマイペースの典型的B型人間のままで
いて欲しいと思ったら、離れるのがお互いの為だと思った。
彼の為でもあり、私の願いでもあった。

 私は今まで自分が手痛く振られていた経験から、自分のような傷つき方は
絶対にして欲しくなくて、どう切り出せばいいか考えていた。
もしかしたら、私を振った元彼も、別れを言う時はこんなに苦しくて
言いにくいものだったのかな・・・。あの時は「勝手過ぎる!」と思い、
傷付いたけど、きっと違う。別れを言う方も辛かったんだ。
 例えば他に好きな人ができるまで、彼と付き合うなんて私にはできないし、
決定的な何かがないのに、「ただ冷めた」だけでは傷付けてしまうから、
どうか心を痛めませんように・・・と願って、ウソをつくことにした。

 その最後の日は彼の誕生日でもあったので、初めて私の作品を見せた。
今までは、そうゆうのよくわからないから、と見たがらなかったけど、
彼と一緒に仕事をした事から生まれた『Cool Down』を見せたら、
「おもしろい!」と笑ってくれた。いつもいつも彼に笑わせてもらっていたのに、
最後には彼を笑わせることができた!!!
笑っている顔で、最後にしたかった。
絶対に絶対に切ない気持ちには、なりたくなかった私は、こう話した。
「あなたのことは、嫌いになった訳じゃないけど、
やっぱり、親が付き合うこと反対していて・・・。」
そう話すと、
「わかった(^−^)」
と笑顔で言ってくれて、「今までありがとう」のメールがその夜届いた。

 女友達や知り合いでも、環境や自分自身が変わることで、
自然に会わなくなることもあるのに、男女の関係だと、
ハッキリ別れを告げなくてはいけないって、残酷だ。


 今まで、親子ほど年の離れた男性を、恋愛対象として見れたのは、
実の父親との関係がうまくいっていなかったからで、
彼らに、理想の父親像を求めて、甘えていたかったから。
私も年を重ね、父親との距離が縮まってきたら、父なりに精一杯働いて、
家族を支えてきたんだって、今頃わかるようになり、妄想や美化してまで、
理想を求めるより、"父"って存在は、実の父一人いればいい。
その事を否定してしまったら、今の私だって居ないはずだし、何よりも父に失礼。
彼氏に父親の役割を求めて、甘えることからは卒業、
いや『親離れ』に近い(笑)

 自分を丸ごと受け入れてくれる、年上の男性との恋愛は、楽だけど、
自分の直さなきゃいけない嫌な部分もそのままになる。
そういえば、テレビで誰かがこんな事言っていた。
「自分で自分の嫌な所、直したい所があるのに、それも含めて、
『そのままの君が全部好き!』と言う男は願い下げだ。
私は"そのまま"でいたくないのに、『そのままでいい』だなんて、
勝手過ぎる!」と。

 例えば、一緒に山登りをする時、私が転ばないように、
一歩後ろから優しく見守ってくれるような、先生や父親のような存在ではなく、
ちょっと前を歩いて、「頑張れ!頑張れ!!」とリードしてくれる男らしい人
でもない。隣で、同じ風景を見ながら、切磋琢磨するように、歩み続けられる人。
楽でも楽しいだけでもないけど、一緒に楽しみを作っていける人が、
いいなぁ〜(^−^)