私の捨てられないゴミ 


  『絵を描く事は旅をするのと同じ。
私は今、花弁の谷間から雄蕊と雌蕊の丘に続く春の小道を旅している』

 これは不慮の事故で手足の自由を失い、
口に筆をくわえて絵を描いている星野富弘さんの詩です。

 私がこの言葉に共感できたのは、
羽がなくても飛べるような体験をしてからでした。

 それまでは、実際に出掛ける旅でしか旅はできないと思っていたし、
自分の事は自分が一番よく知っていると思っていた。
 よく、『自分探しの一人旅』というけど、
それはしがらみのない中で、気持ちに正直になれる自分との出会い、
他者との予期せぬ出会いに、見知らぬ自分を発見する出会い。
思いもよらない感情に出会うからだけど、
だったら恋愛でも一緒!?


 意外な自分との出会いと言えば・・・
それは、キューバのダンス教室で初めてキューバ人とサルサを踊った時。
感情とは全く関係なく、
本能で『メス』のスイッチが入ったオンナの私との出会い!?

 まだ二十歳だった私は、ダンスの技術的な事より、
お互いの息づかいや鼓動まで聞こえてきそうな密着感に緊張しっぱなし・・・
 先生は上半身裸だし、褐色の肌の手が私の白い手を取って、
もう片方は腰に回され、彼の誘導でグイッと引き寄せられたり、
私に回るよう合図したり、うまくいったら笑顔でウィンク!
ステップを確認しながら、足元ばかり見ていた私に彼は
 「音楽を聴いて、僕を見て!」
と、顔を上に上げさせた。

 彼が男らしく、力強く、
そして慣れてない私に合わせて優しくリードしてくれたので、
素人でも安心して気持ち良く踊れたはず・・・
なのに、胸だけはドキドキ・・・。

 言葉も通じないし、会ったばかりで、好きでも何でもないはずの相手でも
素敵に感じさせてしまう、キューバのサルサ。

 男性が本来持っている魅力である強さ、たくましさを肌で感じ、
女性として踊る自分は、改めて『オンナ』なのだ、と実感。
踊っている時だけの疑似恋愛をした。

 日本では女性がどんどん強くなっているし、
男性は男らしさがなくなってきているので、一体何人の日本の男性が
キューバ人のようなサルサを踊れるのだろう?


 二回目にキューバへ行った時は、女性の先生とチャチャチャを踊った。
彼女はあまり細かい指導はせず、
音楽を耳からではなく心で聴くようにと教えてくれた。
 彼女の長い手足は柔らかく動き、
しなやかで伸びのある軽やかなダンスは、
見ているだけでも気持ちが良かった。
妖精のように、どこかへ飛んで行ってしまいそうな自由さと、
子供のような無邪気な笑顔。

 私は明るく陽気で軽快な音楽に胸が躍ってきて、
足を弾ませながら自由に踊っていた。
 本当は足を跳ねさせない踊りらしくて、他の先生の時は注意されたけど、
ダンサー目指している訳ではないから、
技術関係なく体を音楽に合わせると、私は自然にピョンピョン跳ねていた。

 すると、次第に地面に足が着かなくなり、
空中でもなく、チャチャチャのリズムの世界へと入り込み、
体と心が空気より軽く感じた。

  地面を足で蹴り上げて、
  少し浮き、そのフワッとした感覚に喜び、
  今度こそ飛ぶぞ!と、
  足踏みして飛びかけたら又沈んで・・・
  一瞬浮いたようなあの感覚をもう一度、と
  『飛ぶ練習』をしているみたいだった。

 彼女は私が飛ぶための先生のように
 「一緒に飛ぼうよ!飛べるよ!!」
とでも言ってくれているみたいに、私の手を引きリードしてくれた。

 「ナナはチャチャチャのダンサーよ!」
と満面の笑顔で言われて、
私が「NO!NO!!」と恥ずかしがると、
 「だって今、チャチャチャを踊っているじゃない?立派なダンサーよ!」
と言って又笑った。

 『ダンサー』という言葉の響きには、
人に見せるダンスというイメージがあったけど、
私の踊っている姿を人に見せたら、プッと笑われてしまいそう。
でも本人は心の奥から踊っているのだ。
(もし、プッと笑いたくなったら、『土』の中のキューバの写真を見て下さい)

 例えば何か嬉しい事があった時、
 「ヤッター!!!」
と、両手を上げてピョンピョン飛んで、ジャンプしたりする。
それも喜びを表す一種のダンスなのだと思えたりする。

 それができたのは、子供の頃だけだったけど、
キューバ人はダンスが体の中に染み込んでいるかのように、
大人も白人も黒人も、先生じゃなくても、曲がかかればダンスを踊る。


 今度は実際に空を飛ぶのは、どうゆう感じなのだろう?と思い、
ベネズエラではパラグライダーに挑戦してみた。
きっと鳥のように自由で開放的で気持ちいいだろうなぁ、と。

 ・・・しかしそれはまるで飛行機と同じだった。
初心者の私には後ろにパイロットがつき、
行き先も高さも彼が全てをコントロールしてくれていた。
 私は乗り物酔いのような目眩を感じ、景色を満喫する余裕はなかった。

 その時、勘違いをしていたのは
『飛ぶこと』のイメージは『最大限の自由と解放感』であり、
物理的に飛ぶこととそれはイコールではなかった。 


 そして私が次に浮かんだのは、
カナダの英語学校で一緒だったポーランド人の友達のことだった。
彼女とはお互いに英語でショートストーリーを書き、
交換し合っていた。
 私は天使が出てくるようなファンタジーを書いていたので、
それを読んだ彼女は毎回泣きそうな顔をして感動してくれた。

 いくら感受性が豊かでもオーバーなくらい絶賛してくれるので、
私は慣れていない感覚や恥ずかしさから、
いつも辞書で『Exaggerate』を指さしながら、
 「あなたは大げさだよー!」
と言うのが習慣になっていた。

 そんなある日、彼女から手紙をもらい、
その中には小さな紙が入っていたことがあった。
その紙には大きく
『EXAGGERATE』(大げさ)と書かれてあり、その下には
↓      ↓      ↓     ↓

『THROW ME TO THE GARBAGE PLEASE!!!』
 私をゴミ箱に捨てて!お願い!!!
・・・と使用説明書きのように小さく書かれてあった。

添えられていた手紙には、
 「私があなたの作った物語を読んでいる時、私はここにはいない。
雲の上やお花畑にいるみたい。
その間だけでも、今平凡なこの世界で生きていることを忘れさせてくれる。
どこか不思議なもう一つの世界へと、飛んで行ける。
空腹な心に食べ物を与えたみたいに、満たされるよ!
どうかこれからも私の心を空腹にしないで!
私は大げさなんかじゃない。
だからもう、その言葉はゴミ箱に捨てて!!!」


 私は今だに、その
ゴミを捨てられずにいる。
それを見ると羽がなくても飛べるような、
技術がなくても踊れるような、
お金がなくても旅ができるような話を、書きたくさせるから。