生きてこそ 


  なぜ生きているのか・・・?
誰でも一度や二度、真剣に考えたことがあるはず。
"生きている今"を、肯定的に思えない時、"ここではないどこか"へと、
心が勝手にワープする。その"どこか"へ行っていい理由を必死で探す。

 私の場合、小さい頃から自分の家族について聞かれても、ごまかしたり、
嘘をついたり適当に言っていたので、いつの間にかそれが普通になってしまい、
自分の意見に自信がなくなり、見た事、感じた事をそのまま素直に
言えない子になってしまっていた。
自分の今ある現実を隠して、自分じゃないモノになろうとする、そんな生き方は、
息をしているだけで、
"自分"を生きていない。本当の自分はどこにもいない、と思った。

 今は大人になったので、嘘も方便という事もわかり、全ての人に
全部本当の事を言わなくてもいいと思うから、だいぶ楽に生きているけど、
小さい頃は"普通"であることに、すごく憧れていた。仲の良い兄弟姉妹や、
甘えられて頼りがいある親を持つ子が、キラキラと眩しかった。

 三つ違いの姉は、知能指数が今でも小学校低学年のまま止まっている。
姉といっても、先に生まれただけで、中身はとっくに私は追い越していた。
生まれつきの病気だったのか、わからないけど、とにかく泣かないし、
口数の少ない、何でも言う事をきく手のかからないイイコらしかった。
小さい頃はかわいかったみたいで、母は本気で劇団ひまわりに入れようかと
思っていたと言う。
 ピアノ、習字、水泳、そろばん、塾・・・一通りの習い事全てやらせていた。
母が教えた訳ではないのに、大人の見よう見まねで、切符を買って
電車に乗り、遠くまで一人で行って、無事帰って来た事もあったそう。
記憶力も、物凄く良くて、特に自分の興味ある事に関しては抜群だった。

 私が同じ小学校に通うようになってから、いつからか泣いて帰って来るように
なった。いじめられていたのだ。
クラスの子に、
「話し方が変。」と言われてから、殆ど話さなくなり、
おとなしく言うままになっていたので、いじめの的になっていたようだった。
外ではおとなしく、家では癇癪やヒステリーを起こし、泣き叫び、
ボロアパートの床が、突き抜けるんじゃないかと思うくらい、
激しく地団駄を踏んでいた。体が大きいので、力が有り余っているかのように、
母をボコボコに殴っていた。

 父親は、
「施設に入れればいいだろ!」と、姉を煙たがり、無関心。
「この子は普通の子とは、違うんだから!!」
と、殴られた後も泣きながら姉の頭を撫でて、
小さい子をあやすように甘やかす母。
 この狭い2Kのボロアパートで4人家族。嫌でも目の当たりにしていたそんな
やり取りの時、私はいったん外へ出て、泣き声がしなくなった頃に戻るように
していた。何も見ないように、聞かないように、感じないように・・・
感覚を鈍感にしょうとしていた。
幼いながらも、これが家族?これが姉妹??そんなの嫌だった。

 初めて一人だけ、姉の友達がこの狭いボロアパートに遊びに来たことが
あった。その人は私の目の前で、家のお金を盗って行った。
見てわかる通り家は貧乏なのに、そこから更にお金を盗む人がいる。
私は親にその事を話し、盗った人と、その人の親が家まで謝りに来て、
お金は戻った。悲しいとか、ショックとか、どんな気持ちだったかは、昔過ぎて
覚えていない。
ただその事実は、お金が戻ったからといって、なかったことにはならない。

 姉がいじめられていること、普通じゃないことを、誰にも気付かれないように、
私だけはみんなと同じように"普通"に見られるように、幼いながらも、
自分を守ることで必死だった。
そんなこと知られたら私もいじめられるかもしれない。
休み時間、校庭で一人で縄跳びをする姉を見かけても、廊下でのろのろ歩く姿を
見かけても、他人の振りをしていた。家の事を聞かれても、
適当に答える癖がつき、臭い物には蓋をすることが身に付いた。

 私が唯一、学校で自分の気持ちや感覚をストレートに昇華できたのは、
作文と絵だけだった。でもどんなに授業で褒められても、
何かの賞に選ばれても、親にその事は言わなかった。
姉の事でそれどころじゃないし、褒められたいと思ってやっていた訳では
なかった。それに、そんなことはとっくに諦めていた。

 進路を決める時は、高校には行かずに、美術系の専門学校に行きたいと
話すと、
「アンタにそんな才能ある訳ないじゃない。」
と、即却下。今なら、才能があるから行くんじゃなくて、好きだから行きたいんだ
と言い返せるけど、
その当時は、お金のかかる事は大人に従うしかなかった。

 姉は小、中学校は普通学級だったけど、高校から養護学校に入った。
姉の場合、"普通"と"障害者"の中間くらいで、養護学校では話す事も書く事も
ままならない、重度の知的障害者の人ばかりだったので、
学園祭に行った時は、
「お姉ちゃんは、こんなに悪くないのに・・・。」
と、初めて姉を可哀相だと感じた。しかし、この学校の中では、姉は優秀な方に
なったので、姉の為にはこれで良かったのかもしれないと思った。

 私は高校に入ってから、だいぶ心が自由になった。
姉も働き始めたし、何より自分でアルバイトしてお金を稼げるようになったのが
嬉しくて、学校の勉強そっちのけで、バイトに明け暮れていた。
高校は商業科だったので、周りのみんなも家の事情で、すぐ働かないと
いけない人だったり、片親だったりで、
今のバイト代さえも生活費にあてる子もいた。
 小、中学校のクラスメイトみたいに、親の愛いっぱいにぬくぬく育ってきた
ような、キラキラした人達はいなくて、私は気分が落ち着いていた。

 高1のある日、友達から遊び半分で万引きを教わった。
「こうやって、小さいアクセサリーを手に持ったら、グーにして袖にスッポリ
手を隠す。その手をコートのポケットに落とすの。」
初めは、4〜5人で露店に行き、一人が店員と話してる隙に一斉にやった。
もちろんバレなかった。

 何でこんなに簡単なのだろう・・・私は誰にも内緒で、一人でも続けていた。
コンビニでおにぎりだったり、お菓子を袖に入れてから登校したりした。
味を占めて、袖に入らないようなお弁当も、カメラをチェックしながら、
スポーツバッグに入れて、洋服や化粧品もうまくいった。調子に乗って、
CDショップで、同じようにスポーツバッグに入れて店を出ようとしたら、
ブーッと鳴ってしまい、
「ヤバイ!止めよう。」と思って、バッグからCDをこっそり返そうと思ったら、
隣のクラスの友達に会ってしまった。しばらく店内で話している間中、
先に帰ってくれないかな、と願うが流れ状、そうはいかず・・・。

 ここで店の人に見つかったら、彼女まで巻き添えになる、と思って、
バレないようにスポーツバッグごと店内に置いて、手ぶらで一緒に店を出た。
彼女と別れてから、急いでCDショップに戻ると、
スポーツバッグを置いたはずの場所には何もなかった。
店員があのブザーから怪しんでいたらしく、
「これ、あなたのでしょ?」
と、私のスポーツバッグを持っていた。

 最初に交番へ行き、次に警察署に行った。
後悔しているのは『友達に会ってしまったこと』、
悪いと思っていることは『バレてしまったこと』。
万引きに対して、後悔も悪い事とも少しも思わなかった。
だってこれまで、何度も成功してきて、
見つからなければ良かっただけのことなんだから。
あんなに簡単なことを知っていて、わざわざもうお金を払う気になんてならない。

 警察には何時間、居たのだろう。
私はこの日、初めてバイトを当日欠勤した。その事ばかりが気になっていた。
反省しているように見せれば、早く帰してくれるだろうと、
心のない「ごめんなさい」と「すみませんでした」を繰り返したが、
なかなか帰してくれなかった。やっと姉が迎えに来てくれて、
姉から両親に話した。
母は、
「どうりで最近、物が増えたと思ったら・・・。もう二度としちゃダメよ!
万引きは癖になるんだから!わかった?」
父は、
「反省してるんだから、もうしないだろ。あんまりうるさく言うな。」
私は、
「反省なんかしてない!悪い事してると思ってないし、警察でもどんなに強く
言われても泣かなかったんだから!」
母は、
「万引きは悪い事よ!もうしたらダメだから!!」
を繰り返す。しかし父は、
「大したもんだな。警察行っても怖気付かないなんて、いい度胸だ。」
この時だけは、父が味方に思えた。こんな風に言う父親はいるのだろうか?

 それから半年、私は万引きを止めなかった。止められなかったのだ。
もうCDショップには行かない。カメラもチェックする。バレなければいいんだ。
しばらくずっとうまくいっていた。
 しかし、コンビニでうっかりバッグのファスナーを開けっ放しにして、
商品が顔を覗かせているのを、店員に見られてしまった。

「これ、うちの商品ですよね?」
親をすぐ連れて来るように、言われた。
ヤバイ・・・二回目捕まったら、どうなるんだろう?又、警察に行くんだ・・・
と、警察での激しい尋問を思い出していた。

母が来て、店長さんと少し話し、店長さんは、
「これ、もう生ぬるくなってしまったので、お買い上げ頂いて、
今日はもう帰っていいですよ。初めての事だと思うので。」
プリンとか、サラダとか、本当に大した事のない物を、
私はバッグに入れていたんだ、いや、大した事ない物だから、
わざわざお金を払う必要なんてない。と、まだ思っていた。

 母が、会計をしているその後ろ姿を、私はずっと見つめていた。
それは、普通に買い物している時の姿のようでもあり、
何かを清算しているようにも見えた。
店を出て、私に静かに商品を渡した。きっと、嵐の前の静けさで、
この後すごく怒られるだろうと、覚悟していた。
母は、
「やっぱり、止められないんだと思った。万引きは一度やると癖になるから、
なかなか止められないんだよ。わかるから、その気持ち。
母さんも小さい時、やっていた事あったから。妹にも教えて、一緒にやってたの。
そしたら、母さんがやらなくなっても、妹の方が止められなくなって・・・。
母さん、どう言ったら、止めてくれるかわからなかった。
・・・だから、今すごくわかる。・・・わかるから。」
母は泣いていた。私も泣いた。
 その時、まるで人を刺して返り血を浴びた感覚。
刺した方も"痛い"んだって事、初めて知った。もう二度と母を泣かせたくない。
それだけは、自分に誓った。

 お金があれば、何でもできる、自由になれる、その気持ちだけは変わらず、
コンビニや郵便局でひたすら働き、高校の三年間で、200万貯めて、卒業後は
念願の一人暮らしを始めた。
何で実家が近いのに、一人暮らししているのか、よく聞かれるけど、
その度に適当に答えるのにも慣れた。最初の原因は家族の事だったけど、
今になってみれば、お金がかかっても自由な生活をすることは、
私の心にとって必要なことだったのだ。


 19〜20歳の頃、親とは殆ど連絡を取らなかったけど、私は寂しくなかった。
その頃にしていた恋愛で、十分満たされていたから。
当時、好きになる男性は今考えてみると、とても偏っていた。
"虚無的"という言葉が一番合うのかな・・・。何かに対して熱くなったり、
欲しがったり、周りに流されたり、逆に自分の我を通したり、一切しない。
ただ、飄々と淡々としている、とらえどころのない人。
 誰にでも公平に嫌な事は起こるはずなのに、内側で蠢いている複雑な感情は
見せない。冷静でマイペースで、冷たく感じるけど、人に気を使わせないように、
さりげなく優しくできる人。

 彼の隣にいる時は、『風船』のひもを握りしめている感覚だった。
それは、手を離したら、どこかへ飛んで行ってしまいそうな頼りなさと、
尖った物に触れたら、その途端パンッと、破裂してしまいそうな弱さ。
なのに子供達は、風船を求めて止まない。側にいるのは一時的なのに、
魅力がそれを上回る。ひもを握りしめている時は、飛んで行ってしまうことも、
破裂してしまうことも考えない。

 よく恋愛を味に例えたりすると、甘酸っぱいとかほろ苦いとか言うけど、
その恋愛は、無味無臭の『水』のようなモノだった。
味や匂いで惹きつけるのではないけど、飽きないし、確実に私を潤し、
満たしてくれていた。
一般的に言う『付き合う』とか、『彼氏』とか、そうゆう枠にははめられない。
ただ、寄り添っていた。
彼のその何からも自由なようで、だけど自分の無力感を悟っているような
独特な空気感が、とても居心地良くて、唯一、私が私でいられた。 

 一人暮らしを始めたばかりだった私は、親からも姉からも自由になれたけど、
世間の常識もよくわからないまま、このまま一人で大丈夫かと心配だった。
高校の時、万引きも悪い事だとわからずやっていた、そんな私に
「あなたはあなたの常識で生きればいいんじゃない?」
と言ってくれた人。 

 最初に知り合った時から、『女』の影があった。
そうゆう人ならではの余裕みたいなものが、逆に私をホッとさせていた。
ただの偶然かもしれないけど、私が知り合ったその類の男性、二人共、
別れた元奥さんや彼女が精神的に不安定な人で、
別れたはずなのに彼を頼って、切れないでいる状態だった。
彼らもそんな女性を放っておけないでいた。普通の人とも違うけど、
本当の精神病とも違うから、施設に入る程ではない。
かと言って、"普通"の生活もできないから、"普通"と"病気"の間。
どっちの仲間にも入れず、ギリギリで生きているらしい。

 私は姉の事もあったからか、何となくだけどわかる気がした。
フランス映画の『ベティブルー』のベティのようだと言う。
あの映画だと、男性がベティを受け入れる許容量があったから、
恋愛が成り立ったけど、もし実際だったら・・・

「淋しい者の気持ちは、淋しい者にしかわからない。
お互い相互依存で一緒にいたのもある。でもどちらかがひどく沈み込んだら、
すぐに引っ張り上げて『しっかりしろ!』って、強く言えないんだ。もう片方だって、
ギリギリで生きているんだから・・・。その時は共倒れするしかない。
だから、その手前で別れるしかなかった。
・・・でも見捨てることもできない。」
そう話してくれていた。

 別れたくなる気持ちも、別れられない気持ちも、両方わかる。
だから、連絡が来たらまだ会っているということも、
私は止めて欲しいとは思わなかった。
もし見捨てるような人なら、私は惹かれない。
彼自身も、彼女に必要とされることを嫌ってはいない。
それはギリギリで生きている人の唯一、死ねない理由になるのだ。
決して頼りがいはないけど、寄り添いがいはある人。
一緒にいて、楽しいとか好きとか、愛しているとかの男女の気持ちよりも、
秘密を共有している"同士"のような感覚。

 私が淋しくて、潰れそうな時、「今から行こうか?」と本当にすぐ来てくれた。
他の誰かから見たら、傷を舐め合ってだけとか、愛情じゃなくて同情・・・
のように見えるのかもしれない。
未来が見えない、別れに向かっている関係、それでもいい。
その時の気持ちに正直にいたいだけだった。

 そして別れは、初めて彼の方から、
「今から行ってもいい?」と言われた時だった。
いつもクールで、感情を見せない彼が、自分の方から
会いたいと言ってくることはなかった。

 私は、咄嗟にいろいろ理由を付けて、「ごめん」と拒否した。
傷付けてしまった・・・と思った。
でも彼が元彼女に対してそうだったように、片方が深く沈み込んだ時、
もう一方が引き上げて明るく元気付けるなんてできない。
私は自分一人守ることでいっぱいいっぱいだったのに、一緒に沈没してしまう、
と反射的に身を守っていた。
十以上離れた男性が、19の私に助けを求めるなんて、よっぽどだ。
私なんかよりも、ずーっと沢山の事を諦め、我慢してきているはず。
何も感じません、関心ありません、って顔して飄々としているのは、
心はどこかに仕舞って置いて、無意識に自分を守る術が身に付いたから。
もうこれ以上傷付きたくない一心で、勝手にそうなってしまった。

"あなたを振り回さないから、あなたも振り回さないでね"
"これ以上入って行かないから、あなたも入ってこないでね"
感情が動いていても、少しも動いていないようにコントロールすることで、
言葉に出さなくても、それを表現しているのはわかっていた。

 そんな彼が初めて弱さを見せた。小さい私に・・・。
自分が淋しい時はいつでも来てもらって、救われたし、助けられた。
なのに私は同じ事を返せない。スーッと、引いてしまった。
その後、彼からは二度と連絡は来なかった。
私からもできなくて、それで最後になった。

 しばらくして、又同じような人と出会い、同じように別れた。
相手との距離が縮まりそうになった時に、私から一方的に
引いてしまったのだ。
その人からは何回か連絡はあったけど、
「自分が淋しい時にだけ一緒にいて欲しい」だなんて、言えない。
又一人、傷付けてしまった。
 その後、同じようなタイプの人とは二度と出会わなかった。
求めさえしなかった。
"私の中の常識"で、これ以上はもうダメ、と自分に誓った。

 もしかしたら、とても残酷なことだけど、自分より淋しい人、
もっと辛い思いをした人と一緒にいたら、自分の悩みが小さく感じるから、
恋愛でも同情でもなく"優越感"。
幼くても女性であることを利用して近付いた。
都合良く満たしてくれなければ、あっさり別れる。

 こんな私が、まともな恋愛なんかできっこない!
その通り、振った数だけ手痛い失恋を、その後することになる。
罰だったので、綺麗事でも何でもなく、人生は因果応報。
自分が傷付けた人の気持ちは、必ず味わうコトになっている。

 人は、傷付けば傷付く程に、免疫ができ、慣れて、感覚が鈍感になることは
ない。
振り幅が大きい人になると、
「あの時の痛みに比べたら、大したことない。」
と、ポジティブにとらえられるのかもしれない。
悲しんだり、憎んだり、泣いたり・・・感情を素直に出せる人は、
"期待"をしているから、だと思う。
最初から諦めている人は「あ、やっぱり・・・」と思うだけ。
こんなものだ、と。

 最初の彼に教わったことで、『なぜ、人は生きるのか?』の、彼なりの答えは、
「それは、どんな哲学者にもわからない。
僕らはその答えを知る事ができる力を、予め外されて生まれてきたから。
きっと本当の答えを知ってしまったら、誰も生きていくことはできなくなるから、
人間の想像主が、その能力だけは取ってしまったんだ。」

 それからもう一つ、彼の言葉だったのか、テレビや本から知ったかは、
忘れてしまったけど、好きな言葉がある。
「人は必ず、いつか絶対に死ぬ・・・ということを、忘れて生きている。
明日突然死ぬかも?なんて思いながら、生きていない。
でも、身近な誰かの死によって、それを思い知らされる。
永遠の命などないことを。
それは、死者が残す、生存者への"最後のメッセージ"なのだ。」

 姉を見ていると、生きていても迷惑を掛けるだけなのに、
なぜ生きなきゃいけないのだろう?私は、家族から離れ、
姉の存在で苦しむ事もなくなったが、家族でいる限りは、逃げ切ることは
できない。理解したい、向き合いたい気持ちもあったので、
障害者や高齢者の施設でボランティアをしてみるようになった。
そして、ヘルパーの資格を取って、福祉の道へ進もうと思った。

 実習の時、特別養護老人ホームで、寮母さんが話してくれた事は
今でも良く覚えている。
「私は、健常者のお年寄りよりも、痴呆のお年寄りの方が心がキレイだと
思うの。普通だと、いろんなことを考えて嘘を付いたり、悪い事もできる。
でも痴呆の方は、何も考えず口にしたり、行動するだけで、
純粋な子供に戻っただけ。」

 うちの姉もそうなのかもしれない。"普通"は、周りと溶け込むために、
空気を読んだり、思ってないことを言ったり・・・。
嫌なモノや嫌いな人を寄せ付けないで、心のままに感情を表すのは、
"普通の人じゃない"ではなく、"姉の中の常識"で生きているだけ。
父と私を嫌い、母としか話をしない姉。
友達も一人もいないし、異性と付き合った事もない。

 母は、
「正直、やっぱり"普通の子"として生まれてくれていたら、
この子にとっても幸せだったと思う。
友達や彼氏がいて、何でも一人で出来るアンタが羨ましいのよ。
自分に出来ない事、やっているからね。
・・・でも、普通30過ぎたら、親と出掛けたりしないけど、この子はいつまでも
小さい子みたいにベッタリだから、寂しくないけどね。」
呑気でマイペースな母だけど、唯一、姉にとってはたった一人の理解者
だということを、私は尊敬している。

 ある日、老人ホームでの実習の最終日、お年寄りが私に話しかけてきた。
「ねえ、私をここから連れ出してくれない?息子に会いたいんだよ。
ここは、時間になったら、風呂、食事・・・たまらなくつまらない。
自由になりたいんだよ。
あなたは若くていいわね、何でもできて、自由で。
こんな所で年寄りの世話してて何が楽しいの?」

 私は答えられなかった。決して楽しい訳ではなかった。
ただ誰かに必要とされたかっただけなのかもしれない。でもここのお年寄りは、
私を必要としているのだろうか?風呂の時間になったら、
駄駄を捏ねて入りたがらない。食事を食べさせても、口からこぼす。
何の為にここに生かされているのだろう?
死ぬまでこんな生活を繰り返す。

 私はヘルパーの資格を取ってから、初の海外旅行でインドへ行った。
そのお年寄りの言う通り、もし何かやりたいことがあれば、私は何でもできる、
ということを実感したかった。

 マザーテレサの施設『死を待つ人の家』でボランティアをした。
日本の老人ホームのように、カーテンや仕切りはなく、ただベッドが、ダーッと
並んでいて、ガリガリに痩せた、骨と皮だけの骸骨のような人達が寝ていて、
動かなければ、死んでいるのか生きているのかわからなかった。
一人の老人が奇声を上げて、泣き叫んでいた。
皮膚の皮が深く深く抉られていて、肉が見えている。
ボランティアの人が、そこへ薬を塗ると、それが浸みて、物凄い痛さで、
力を振り絞ってもがき、抵抗している。
そこで立ち竦んで見ていた私に、シスターが、
「あの人の手を握ってあげて!」
と言ってきた。
手を握る、というよりは、動かないように押さえているようだった。
私は自分のやっていることが、よくわからなくなった。

 終わった後、私は一人で泣きじゃくっていた。
人前でも関係なく、子供みたいに泣いた。
何の涙かわからなかったけど、抑えきれなくて、苦しかった。
それを見たシスターが、
「どうしたの?」
と、心配してくれた。
私は誰にも今まで聞けなかったことを、ついに聞いた。
「何でここの老人は、こんな思いまでして、生きなきゃいけないの?
痛いし、苦しいし、一人で何もできないのに・・・」
シスターは静かに答えた。
「ここの老人はね、少しでもお金があるから、家族が出してくれてここにいるの。
もしお金がなかったら、外で一人で、誰にも看取られずに死ぬだけなの。
だから、ここにいる老人はまだ幸せなのよ。」

 生と死があからさまなインドを見て、日本人は何を思うのだろう。
物が溢れ、自由で平和な国・・・。
私は、それから2回、インドへ行っているけど、値段の交渉の時、
「高い!もっと安く!!」
と値切っていると、ふと情けない気持ちになった。私達日本人からすれば、
本当に『高い』訳ではない。なのに、一生懸命「負けて!」と言い続けることに、
虚しくなった。ただ遊びに来ていて、日本では出来ない事を楽しんでいるだけ。
彼らが必死で生きている日常も、私達にとっては、それさえも観光名所。


 日本では、食べることに困っている訳じゃないのに、
自分の遊び代や贅沢の為に、援助交際をする人がいる。友人でもいた。
そのコは、どんなに好きじゃないタイプの男でも、臭くても、気持ち悪くても、
体を乱暴にいじられても・・・最後に数万円もらえたら、忘れられる、と言う。
ほんの1〜2時間、我慢するだけで、その後美味しい物を食べたり、
好きな服やバッグを買ったり、エステに行ったりしたら割り切れるらしい。

 スゴイ、と思った。
すごい悪いとか、物凄くダメなコト・・・という意味ではない。
そりゃあ、体を大切にしないことは良くない。自分だけの贅沢の為に、
そこまでするのは、褒められたものではない。
・・・でも、その最悪な男達を1〜2時間で満足させることができるのは、
ものすごいプロ意識だと思った。

 自分のプライドも、好き嫌いも、感覚、感情を一切捨てて、その人が喜ぶように
接する。
心ない人は、お金を払わないで逃げたり、彼女の痛がること、嫌がるようなことを
散々して、ただの遊び道具として、扱う。
そして金だけ置いて彼女を置き去りにして、帰ってしまう。

 そんな時、泣きながら私に電話してくることもあった。でも私は、
「もう止めなよ!」とは言えなかった。
万引きと同じで、自分から「やってはいけない」と思えない限り、
止められないことはわかっていたから。
 でもそんなに嫌な人ばかりではなく、気が合う人や優しい人もいるから、
今日の人の事を早く忘れて、
「さ〜、次いこ!」と切り替えられるらしい。

 しかし一人だけ、忘れられないお客がいたことを、私に話した。
その人は、ホテルでもずっと靴を脱がないし、シャワーも浴びないから、
変な人・・・と思っていたらしかった。
そして、いざ行為を始める時、ズボンを脱いだら、片足は義足だったと言う。
彼女は何て言ったらいいかわからずにいたら、
男は、
「大丈夫。普通にできるから。」
とだけ言ったそう。

 終わった後に男は、僕がこんなことを言うのはおかしいけど・・・
と話し始めた。
「この先、身近な人の死や、不慮の事故、自分ではどうしょうもできない、
悲しい出来事があるかもしれない。
だから、君は、自分で自分を傷付ける必要は、ない。」

"体を売る"というのは、底辺の仕事。
その下に、ホームレスやお金を盗む人もいるかもしれないけど、
勉強や能力、技術、一切必要ない。"女"であれば、やろうと思えば
誰でもできる。
"自分"である必要はない。
底をいったん経験したら、もうそれ以上深く沈み続けることはない。
自分をここまで落とした人は、この先、上がっていくしかないんだ、
生きている限りは。


 「人は何で生きているのだろう?」
姉のような人、身寄りのない老人、何をしたらいいかわからない私・・・。
暗闇で、手探りで、転んで痣をつくりながら、一歩ずつ前へ歩いて行った
19〜20歳の頃。

 そして2011年9月の今、35歳の私は、やっと答えを出せたから、あの頃の私へ
伝えたい。

 311の大震災後、テレビで避難所生活の被災者の一人が、
「この先、どう生きていくかを考えると、いっそ津波に流されてしまった方が、
良かったのかもしれない・・・」
と言っていた。
その時司会者は、
「津波に流されてしまった人の分も、あなた達は生きなきゃいけない!!」
そう答えていた。
私だったら、何て言うだろう?
浮かばなかった・・・。
家も仕事もあって、家族も無事な私に、かけられる言葉はあるのだろうか?
"被災者"の立場を経験してみないと、答えはきっと出せないだろう。

 又、普段の生活に罪悪感を持ちそうになった時、ニュースで9日振りに生存者を
救出できたのを知り、
「良かった!!!」
と、心から思った。
これからが、苦しいかもしれない、痛いかもしれない、悲しいかもしれない。
・・・もっともっと、私が味わったことのないような、受け入れ難い現実
かもしれない。だけど、助かった人がいて、「良かった!!!」と、思う気持ち、
それは100人いたら、100%みんなが思う普遍な気持ち。
死んでしまったら、世界はそこでお終いになる。
辛いけど、生きているから、世界はまだ続いていく。

 阪神大震災を経験したaikoが、
「あの時から、物凄い早さで復旧が始まり、今はこうしてここにいる。
だから被災者の皆さんも、諦めないで!一人じゃないから。」
と、メッセージを送っていた。

 無縁社会と言われているから、不安になるけど、みんな本当は与えたい愛情を
たくさん持っている。決して見返りを求めてなんかいない。
みんなそれぞれの場所で、それぞれの役割を持っているから、
それを全うすればいい。

 人生は思っているよりも、長―いから、その『役割』は少しずつ変わる。
被災者の方にとっては、震災前は、責任ある仕事であったり、家事や子育て
だったかもしれない。・・・けど、今は
『生きる』コト!!!
↑ ↑ ↑
これをまずやらないと、その先はない。
大丈夫。順番があるだけだから。
生きてこそ、生き抜いてこそ・・・その先が待っている。


 かつて、援助交際していた友人は岩手県出身で、今回の震災で心配になり、
連絡をした。
彼女は無事だった!そして、9年付き合った同郷の彼と結婚し、
今は幸せに暮らしている。